O氏の娘さんから

メールを頂いた。非常に嬉しかった。が、恥ずかしかった。それに、勝手なことを日記に書いて少々反省。でも、その時に思ったことを素直に書いておきたかった。

人の気持ちは時間がたつと変化する。記憶も割りと勝手に変化していく。あの時はああだった、という過去をたどって行く場合、自分に都合の良いことは記憶に残っていたり、ありもしないことを色付けしてあたかもあったかのように記憶にしてしまう事だってある。

どちらかというと、記憶はあいまいなものだろうと思う。

しかし、記憶や気持ちが新鮮なうちに書き留めておくということは、後々読み返すと結構新鮮なものになる。

私自身が残した父の闘病記も、実際に闘病をしているときに書いたからこそ意味があると思っている。今、過去の記憶をたどって書くなら、もっと違ったものになる。それは、装飾にあふれて、自分の空想が混じり、時に理想を現実と覚え間違えた物になると思う。

残した闘病記は決して格好のいいものではないし、立派な自分が出ているわけでもない。どちらかというと、自分の弱い部分、辛いだけで何も出来ない自分、ただ呆然とする自分。生きることすら判らない自分。そういうマイナス部分がほとんどだと思う。しかし、それが本当の自分だった。

今日、自分が書いた日記を読み返した。O氏にお別れを言いに行った時の気持ちも本当の自分の気持ちが出ていると感じた。O氏の娘さんはTさんというが、このTさんが私のH・Pを読むと知っていたら、もっと違うことを書いていたかもしれない。装飾に満ち、格好よく書いていただろう。

そして日記を読み返した今、

<今振り返っても、O氏の静かな表情と、暖かい笑顔は素敵だった。

<ただ今は静かに眠って欲しいと願うばかりである。。。。。。 

この気持ちにうそがないことに気がついた。

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