運命

最近、自分がいかに他力本願的要素をもっているかが判ってきた。仕事を探すといいながら、いい仕事がそのうち見つかるだろう、といい仕事がどこかから飛んでくる、ぐらいののんきさで構えているし、キッチンの電球がパカパカしていて今にも切れそうなのに、誰かが変えるだろうとほっておいたり、非常によろしくない。

電球に関しては、父が変えてくれていたので自分で変えるという行為が自分にとっては不自然でならないが、そのほかのことはもう少し自分で欲する態度をつよくしないといけないだろうと思う。

父が発病をしてから、近所の神社でおまいりをするということを覚えた。それまではお稲荷さんへ毎月お参りに行っていたが、どちらかというと仕事の一つであった気がする。そのお稲荷さんの横に「縁結びの神様」があって、ついでにお願いをしていた。しかし、その縁結びの神様はそっぽを向いた。

そして近所の神社は父が生前、神社の役員をすることになり、それがきっかけで時々通うようになった。父が発病をしてからは「釣りに行ける様に」「美味しいものが食べれるように」「一日も長く父が元気でいられるように」など様々なお願いをした。不思議なことにそのときの願いを「お願いをしたことを叶えてくれるかな?」と計ったりしたことは無かった。が、自分のことをお願いすると「お願いしたから」という安心感とともに「今月も又お願いは叶えてもらえなかった」と、結果を計ってしまう。

一体、父のことをお願いしたときと、自分のことをお願いしたときの何が違うのか?

その違いは、父のことをお願いしたときには十分自分がが頑張って、その後お願いをした。しかし、自分のことは、努力をしないしする前にお願いをした、ということだろう。

やはり自分の事になると、他力本願になり、お願いをしたからあとはなんとかしてくれるだろう、といういやらしい気持ちが働く。それより問題なのは、本当に叶えたい願いであるかどうかだ。「神様にお願いをしたし、ひょっとしたら願いを叶えてくれる」程度の願いは、願いとは言えず、欲が深い、ということだろう。神様も良く知っていると想う

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