懐中時計

子供の頃に片親を亡くすということは非常に辛い経験だと思う。私には経験が無いが、父が6歳の時に父親を亡くした、という事を何度も聞かされ、そして病に倒れてからも言ったことがある。幾つになっても忘れる事の出来ない経験なんだと、その時に感じた。

大人になってから親を亡くした場合は、親としての役目を成長するまでに十分に受け取る事ができたのだから、それだけ幸せなのだろう。

孝行したいときに親はなし、というが、親を亡くすと親に対してどれだけ自分が返すことが出来たのかと自問自答し、返せなかったと気づく。人間は愚かに出来ているとも思う。私はその代表だ。

「父親がいるだけありがたいと思え」と父に言われた事を鮮明に覚えている。闘病記にも書いたが、この言葉は父に言われたからこそ心に残っていた。そんな父がよく言っていたのは「父親代わりに6歳から働いた」という事ぐらいだった。

父はどんな幼少自体を過ごしてきたのだろう? 父親がいないことは寂しくなかったのだろうか? しかし、それらの疑問に父は何も答えなかった。「自分の経験したことと同じ事を子供には経験させたくない」と別の場面で私以外の人に言ったのを聞いた覚えがある。

今振り返ると父が自らの経験から、私に与えてくれた物は大きいと思う。

父の辛く悲しい経験は決して無駄ではなかったと思いたい。

 

父が亡くなって、父の座っていた食卓テーブルにある棚を整理した。見覚えのある懐中時計が出てきた。それは、私が子供の頃「オヤジの形見だ」と言って見せてくれたものだった。半世紀は眠っていただろうか?ケースは古めかしく、ガラスは割れていた。それでもどこか新鮮で貴重な品物に見えた。

今、その懐中時計は私の部屋の棚に眠っている

この記事のカテゴリーは: 

コメントを追加