完璧である事

父が発病をして、看病が始まってから後悔をしないようにできる事をする、父にも後悔をしないようにできる事をしてもらう、と心に誓った事を覚えている。

もちろん恭平にも同じ事を思った。

今日で恭平がいなくなって丸2年になる。少し前は後悔をしないほどに頑張ったと思っていたし、私にだっこをされて息を引き取ったことを完璧な飼い主と思ってくれているだろうと思っていた。

でも、それは自分を苦しめないための呪文のようなものであり、結局恭平と父を思うとき心残りや後悔の念が私の心にわきあがってくる。今になるとああしておけばよかった、これもしてあげればよかった、と思う気持ちは苦しみを伴うもので決して喜ばしいものではない。

しかし、それでいいのではないかとふと思った。私は宗教は詳しくないがお経の中に「懺悔」という言葉が出てくる。どんなに悟りを開いた人でも後悔から懺悔をする気持ちになるのだろうか?

いや、きっと後悔や懺悔の気持ちがあるからこそ故人を偲ぶと言っているのではないだろうか。

もし、その人と費やした日々に一つの懺悔や後悔がなく、闘病中にも全身全霊を傾け後悔のないほど完璧に看病をこなしたとしよう。そうするとその大切な人が亡くなった後、その人を想ったり、偲んだり、悼む気持ちは持たないのではと思うのだ。

全てが終わったかのように、その人の人生と共にその人との時間は終焉を迎えてしまうような気もする。残るのは完璧に全てをこなした自分をたたえる気持ちだ。

例えば、完璧に仕事をこなした後、その仕事を何時までも思いおこすだろうか? いや、次の仕事に注意が向けられ、完璧に仕事を終えた自分をたたえることはあっても、あの時はああだった、もう少しこうしておけばよかった、と思いをめぐらせることはしないだろう。

きっと、後悔の気持ちはいなくなってしまった人を想う為には必要なのかもしれない。それだけ愛情を傾けていたという証でもある。

同じように今いてくれたら、○○が出来たのに、とか思う気持ちも同じなのかもしれない。

元気な頃の会話を思い出すのも同じなのかもしれない。

そういう気持ちがあるのは愛情を持っている証拠なのだし、それが全く無くなってしまえば故人は寂しいに違いない。

恭平がいなくなって2年。大好きだったジャーキーを頂戴とせがまれないし、走り回った公園に恭平がいないことは寂しい。もっと遊びに連れて行ってあげたかた。もっと美味しい物を沢山食べさせて上げたかった。もっと抱っこをしてあげたかった。

しかし、その気持ちは恭平が生きていた証として、自分の心の中に残しておきたい。

愛してるよ~、恭平!!!!!!

 

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