命日は過ぎたが

父の誕生日は5月18日。

毎年何をプレゼントしようかと考え、父の日とまとめて一つ送ればいいか、などと勝手な事を考えていたが、今となっては誕生日も父の日も関係ないのが少々寂しかったりする。

振り返ると、大したプレゼントなどはしなかった。それでも父の部屋に私が送ったブランディーのボトルが飾ってあるのを「これはいいぞ」と言った父の言葉が耳に響いてきて、どうして父は・・・・などと思う事が多かった。

今は花を飾り、遠くの父に挨拶をする、という事が徐々に当たり前のことになってきている。

なぜ、どうして、

と考えても答えの出ないことは多い。目の前の出来事になぜ、どうして、と悩み、先行きを考えるまでもいかず、途方に暮れるという事もある。

そして先行きを考え悩み迷う事もある。

ただ答えの出ない、なぜ、どうして、という問題を考え続ける事と、進む道を考えるということを混同してしてしまうことがある。そういうときは延々と考え、落ち込み中々目の前の苦難から抜け出せず苦しい気持ちだけを抱えてしまう。

私も恭平を亡くし、父を亡くしたときなぜ、どうして、と苦しい気持ちになったことがある。そこから抜け出す方法もしらないまま、今に至っているが、一つ言えることは答えのでないなぜ、どうして、という問題もこの世の中にはあるとあきらめることだ。

あきらめるというと響きが悪いので、ありのままを受け入れるというほうがいいかもしれない。

そこで初めて違う道が見えてくるのだと思う。

反対に答えの出ないことを考え続けるというのは、現実から逃げるためにそうしている事もあるのだ。

受け入れてしまったら、全てが終る、という錯覚とか違う道を見つけられなかったらという不安というか、色々な心理が働くのだと思う。

 

私の知人がとあることで悩んでいた。よくよく聞くと悩みではなく、そのなぜ、どうしてという問題を延々と考えその気持ちを聞いてもらい楽になりたいと思っていると気づいた。

私も同じような経験をしたし、だからこそ、違う道を見つけれたらと願う。決して乗り越えるとか、克服するとか、パワーを目一杯必要とする心理状態ではないのだが、自分を認めるという力は必要だと思う。

是非、自分を大切にするためにも頑張って欲しい。

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