2004年12月

12月26日
父が病に倒れてからの2年余りは、私にとってはとても早かった。早いと言う言葉もきっと適切ではないだろう。どちらかというと月日の感覚が無いと言うほうが正しい表現だ。
生きていられる時間には期限がある。その期限が何時になるのかは誰にも判らない。しかし、その期限を目の前にすると、人はオロオロし戸惑い、どうすべきか苦しむ。誰も知らない期限を恐れ、もがく。
私もその一人であり、もがきや苦しみは経験した。そして父がいなくなり、父の存在した空間に空白が出来たとき、埋める方法を知らずに悲しみがその空白を埋めた。父のいないテーブル、恭平のいない散歩、それらは今でも悲しみが埋めている。
それらの中に、時間の経過の認識が無いのだ。記録を残していたので振り返ってみるとあの時はああだった、と思うけれどそれでも季節が2回巡ったという感覚にはなれない。
しかし、一周忌の準備をしているとき「もうあれから1年たった」としみじみ思い出していた。ひょっとしたら一周忌と言うのは時間を認識させるためには必要なのかもしれない。悲しみが深いときにはお坊さんの顔を見る機会が多く、悲しみが癒えるほどにお坊さんの顔を見る機会が減っていく。そういう気もした。
日ごろあまり会わない親戚にも同じことが言える。久し振りに会ったと言うことはそれまで、平和に生活をしていたと言うことなのだろうか?
これからも、親戚とは年中会うことなく、それなりに平和に過ごして行きたい。

 

12月24日
冬らしい寒さを感じる一日だった。季節外れのタンポポを見つけたけれど恐怖を感じてしまった。自然と言うものは人間の手で何かをどうにかできると言うものではなく、自然の大きな力の中で人間が生かされていると聞いたことがあるが、確かにそうだと思う。

その中でうちの愛犬のジュディーとさくらは以外に自然児であると気がついた。それは、今日は急に寒くなったせいか、散歩に行きたいと言わないのだ。昼間には日向ぼっこが出来るほどだったのに、外に出たら相当寒かったのだろう。あっという間に家の中に入ってきてず~っとホット・カーペットの上で昼寝をしている。

結局散歩へも行きたくないほど寒い、と言うことらしい。
もちろん私も散歩へ行きたくはないほど寒かった。私も愛犬も大して変わらないってことだなんだなぁ。。。。。

 

叔父は、食べると直ぐにおトイレへ行きたくなるのは相変わらずだが、元気にしているらしい。しかし、父の一周忌には来るまでの体力はないということで、今回の一周忌は欠席となった。

 

12月19日
父の友達が数人で父に会いに来てくれた。お一人の方は、ご自分のお母様のことでいろいろともめているらしく、大変であるとお話をされていた。
一生懸命にしてきたことが、今は全部裏目に出ていると言うことらい。具体的な問題は何か判らないが、一生懸命にしてきて、その上に今まで何も言われなかったのに、お母様のボケが始まったとたんに問題が浮上したと言うことらしい。
とにかく今は「美しいものを美しいと思える心を取り戻したい」と言っておられた。
ふとした平和とか幸せは「美しいものを美しいと感じる心」にあるのだろうか?
人生の中で波に乗っているときや、順調にことが運んでいるとき、以外にもそういう心を忘れ、もっと順調に人生が進んでいくことに目が行ってしまう。反対にどうして自分だけがと思うほど、人生の運びが上手く行かないとき、自分の人生に振り回されて美しいものを美しいと感じる余裕すらなくなる。
そう考えると、自分の人生が穏やかでのんびり、ゆっくり過ぎているときこそ、美しいものを美しいと見る余裕があるのだろう。その時は立ち止まって美しさを眺める余裕すらあると思う。
私自身も美しいものを美しいと、立ち止まって眺めれるような人生を送れるといいな・・・・とそう感じた一日であった 

12月15日
ハウルの動く城を鑑賞。えがった~。映画自体が良かったのはもちろんのこと、綺麗な景色はまるで自分がその景色を見たかのように感じた。
美しい景色は人の心を洗うんだね~。

12月7日
曽我ひとみさんが今日から待ちに待った家族4人での生活が始まる。記者会見で見せたジェンキンスさんの涙は、とても深いものを感じる。どのような生活を送っていたのか想像をするしかないが、それでも私達が想像を超える辛さを味わったことだろうと思う。しかし、その辛い思いを支えるものはやはり家族の絆、愛情なのだとも思う。「自分は過ちを犯した。しかし子供達を日本に連れてきたことは間違っていない」と言った言葉を聞くだけでもそう思う。
そして、今日曽我ひとみさんが単独での記者会見で見せたあの表情に、又違ったものを感じずにはいられない。自分はこうして家族が一つになったが、まだ残されている人たちがいて辛い日々が続いている。その人たちを思う気持ちは、同じ事を経験した曽我さんは痛いほど判るだろうし、判るだけに辛さも大きいと思う。そして「自分に出来ることを探して自分なりにしていきたい」と言った言葉にも印象的だった。背後には国という大きな物が動いているのを痛いほど知っている曽我さんは、それが自分には歯が立たないほどの大きな力であるとも十分承知の上だろうし、知っているだけに何ができるかと考えると辛いだろうと思う。自分の今手元に来た幸せだけにどっぷり埋もれる事すら許されないのかと思うと同情の念を抱きたくなる。
しかし、ひょとしたら人は当に幸せだけに埋もれるということは少ないのかもしれない。手放しで喜びだけ手に入れるなら、どこかで傲慢というものが出てくる。しかし、傲慢が出たときにはすでに手に入れた幸せは指の間から流れ始めていると言うことでもある。幸せを長く深く続けてもらいたいと願うのはもちろんだが、そのために神様は曽我さんに少し問題を残したのだと思いたい。

12月1日
友達が家に来た。ジュディーとさくらは大喜び。
この友達は、私の親友で無くてはならない友達。
酔っ払って「愛してるよ~」とメールを送ってくる友達だ。
そんな彼女を私は大好きだ。

色々話していると、眠ったときの話題になった。といのは浅い眠りから深い眠りに入るとき、ガクッとなると言うのだ。眠りに落ちると表現するが、どうやらそんな感じで、ガクッと来るらしい。
私は眠りが浅いのか、そういったことは経験が無い。バスで眠ってしまってガクッとなることはあるが、それとは違うという。

私が眠りが浅いのには、一つの原因がある。それはさくらだ。
夜中に寒くて目を覚ますと、さくらと目が合う。あれ?と思うと私は枕が無く、さくらが枕をかって寝ている。私はさくらに追いやられ布団の片隅で寝ているため布団からはみ出てしまう。で、寒くて目が覚める。起きてさくらを布団の隅によけるが、又枕をかって寝ている。私は布団から追い出されている。
それの繰り返しだ。それより不思議なのは、私が目を覚ますとさくらもしっかり目を開ける。どうして判るのだろうか?気味が悪いじゃないか。

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「父」 参考書籍」 グリーフ・ケア」 情報(cancer)」 他」 

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