緩和医療

掲示板の某氏が緩和医療を選択するかという辛い選択を迫られた。私にも経験があるだけに、その時の辛い気持ちは想像するに余りある。

よく希望を一つの山に例えて「この山を越えれば」とか「大きな山」と表現する。癌の場合は治療をして完治を望むという一つの山があり、もちろん完治をするならその山を乗り越えたことになる。しかし、完治が無い場合は山のふもとに戻っただけではなく、又違う一つの山を目の前にする。その山とは緩和医療だ。
その山は目の前に見えているが、上るか上らないかで多くの人が迷い苦しむ。治療という山には辛い気持ちを抱えてでも登ろうと必死になるが、どういうわけか緩和という山を目の前にすると躊躇する。
しかし、同じ山でも頂上にあるものが違うだけなのだと思う。

頂上に完治や、治療の効果という看板があるから頑張って上ろうとする。しかし、緩和の頂上には何があるのだろう?
多くの人は一番悪い事を頂上に想像してしまう。
私も父がホスピスへ転院するとき、隣のベッドの患者の家族の方が「もうダメな人が行く所でしょ?」と冷酷な言葉をもらった。そういう人は頂上に「ダメ」とでも書いてあるのだろ。
しかし、私が見た頂上は「充実した時間」「家族の絆」であり、その山を上る事は笑顔を見るということでもあった。
治療の山を登るとき「治したい」「治らないといけない」という大きなリュックを背負っている。これは案外重い。緩和の山はそういう荷物は無い。ひたすら「充実した時間」「家族の絆」「笑顔」を求めればいい。むしろ、それらを得るために登る山なのだと思う。
後は、山が緩やかで平坦で、時々お茶を飲める山小屋があり、景色もいい事を望みたい。

私は某氏に何も出来ないけれど、そんな事をを願っています。

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