なくす悲しみとなくした悲しみ

何かをなくすと判っていると、悲しいし辛い。何とか無くさずにいられるようにと、懸命になる。懸命になればなるほど「なくすかもしれない」という苦しさからある程度逃げられる。そして「なくすかもしれない」と思えば思うほど、一生懸命になることの大切さを知る。闘病であれば生きている今という時間の大切さを知る。抱き合い、手をつなぎ「一緒に頑張ろう」と支えあうことの喜びも知る。そこにいてくれる、という事だけで幸せを感じたりもする。

ならば、なくしてしまった悲しみはどうしたらいいのだろうか?

一生懸命になる理由も見つからない。喪失感や、失ったものの大きさ、行き場のない気持ちを抱えてしまうことが多い。

なくした悲しみから何度も涙を流し、もう一度会いたい、もう一度声が聞きたい、もう一度触れたいと苦しむ。苦しいほどの悲しみを一体どうしたらいいのだろうか?

しかし、悲しいこと、苦しい事を責めてはいけない。それだけ悲しく辛いということは、その人に対して愛情が深く、悼む気持ちが強いのだから、その気持ちを失うことは反対に寂しい。自分自身は辛くて悲しいが、なくした人にとってはそれだけ愛情をかけてもらえる人生を送った証拠だし、その人本人の人生もそれだけ立派だったと思っていいのではないだろうか。

多くの人はその人がいなくなった事が徐々に記憶から薄れていくけれど、多くなくていい一人でいい。悲しんでくれる、悼んでくれる、そんな人がいてくれのなら、いなくなってしまった人は嬉しいのではないだろうか?

もう一度声が聞きたい、もう一度触れたいとあなたが思う気持ちは、あなたの大切な人も同じように持っているはずだと思う。愛情一杯のあなたを置いて去らなくてはならかなったなんて辛くて悲しかっただろう。だからこそ、大切な人まで懸命に生きて、いつか笑顔で「私は元気だよ」とその人に語り掛けれる日が来る事がきたらいいなと思う。



辛くて悲しみを消す方法は今でもみつからないけれど、

大切な人が抱えていた”去らなくてはならなかった悲しみ”を

知ることは、辛さを減らしてくれる気がする。

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