- Posted By: sakura-marina
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最近、自殺のニュースが多い。
特に子供達の自殺のニュースを聞くとなんとなく絶望的な気分になる。
がんセンターの看護師長さんが「昔は病気になると自宅で看病をし、どれだけ辛いか、死を迎えることがどれだけ辛いか、そして悲しいかを習ったのです。しかし、今は病院に入院し看病の経験がない人が多いのです」というようなことを言われた事がある。ちょうど恭平が亡くなった後のことだった。私に対して「辛かっただろうけれど乗り越えなければならないことです」と教えてくれたのだ。
確かに、恭平の看病、最期を看取ることでどれだけ死が辛くて悲しい事かを知った。私は祖父母は早くに失くし、小学1年の時には一人の祖母がいただけだった。その祖母も「周りに迷惑をかけたくない」というその言葉どおり、心筋梗塞であっという間にこの世を去った。そのため漠然と老いるとか死というものを捕らえることはあっても、実体験としては全くなかった。初めて経験する出来事に戸惑ったのは私の闘病記を見るとよく判る。
人間の命が消えるとき、それは辛く苦しい。そのことを知っていれば「生きること」を選択するにちがいない、と思う。特に子供などは本当の意味で死を知らない。社会から知ることはあってもそれがどのような意味を持つのかは、わかっていないはずだと思う。
苦しいのだ。自分はもちろん周りの家族、友人も苦しいのだ。
生きることは、時に辛く苦しい。苦しい時期も万人に平等に与えられている。その辛い時期がいつやってくるのか誰にも判らないが「苦しい時期だけしかない」という不平等なことは絶対にない。苦しくてたまらずどん底にいるときほど運命は変わりやすく楽しい時期へと変化する。それが運命でもある。だからこそ、苦しい時だからこそ、生きることを選択するほうがいい。
という私もそう思うからこそ生きている。
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